新 倉 掘 抜
今から280年程前に河口湖の回りの村は、湖の水があふれ、水害に苦しみ、一方新倉村は水不足に悩んでいました。河口湖はせき止め湖で、水のはけ口がなくたびたび増水しました。一方新倉村は、溶岩の上にあり、水のとぼしい「水無し村」だったからです。
郡内地方を治めていた、秋元 喬朝(あきもとたかとも)は河口湖の水を、新倉村まで通し二つの問題を解決しようと思いました。
12年かかって、トンネルを掘らせましたがどうしても水を通すことができませんでした。うそぶき山(天上山)という岩山を掘りぬいて水を通すということはそう簡単なことではありませんでした。
1863年(文久3年)新倉村のながしまあんりゅうと元朝(がんちょう)の親子は、村人と工事を始めました。20年もかかって20qものトンネルを、堀りぬきました。
大正時代になり今の東京電力の水路が、作られ新倉や、冨士吉田市の人々は、その水を飲み水や、田畑の用水に使っています。
秋元計画による工事の様子
ほりぬきの長さ・・・・・ 船津口より赤坂出口まで4q
人足の出し方・・・・・・1日25人を、交代で出す。春は、60日 冬は、60日 8月は、30日
1年に、150日ずつをだす。
人足の数・・・・・・・・・・約36000人 そのうち土工は12500人 石工は4000人
費用・・・・・・・・・・・・・・1200両 米が2500俵。
焼堀(しょうくつ)
幕末期には、青目石といわれるたかい岩盤を、堀り抜く ため「山梨の木」を 焚き木としてもやし、もろくなった岩を砕く持殊工法を用いました。
焼掘をしている様子
今、この堀抜きのあとは、富士吉田市と川口湖町の指定文化財になっています。そしてこのトンネルの一部が河口湖町の「新倉堀抜き史跡館」で見ることができます。