青洲堤6


6,明治40年の水害で、桃林橋はこわれ、笛吹川の堤防もこわれ、大変なひがいを受けました。
甲府で「復旧県民大会」が開かれ、青州はすいせんされて議長になりました。あれた山の整理をすること、ひがい者を助けることを決めました。ところが、地元の富士川の堤防のこわれたところを直すことについて結論がでず、工事は進みませんでした。
 青州はこわれたままの堤防をほっておくと危険であると思い、国や県などにいって実際の様子を話し、よくしてくれるようたのんで回りました。
 青州のおかげでこわれた堤防を直す工事が始まりました。この工事の作業は力のいる仕事でしたが、粘土節の歌にはげまされて工事は進みました。
 人々は青州の苦労をありがたく思い感しゃの気持ちをこめて「青州堤」と呼びました。堤防が完成するより前の明治44年に青州はなくなってしまいました。人々は大正3年に堤防のところに桜の木を数百本植えて青州をしのびました。